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このブログを書いている人
初めまして、
このブログを書いている筆者です
- 海外放浪歴13年
- 1983年生まれ、みずがめ座
- 声と態度が大きめのアラフォー女性
- 直感とその時の感情で人生の舵をきる
好きなものは
- サーフィン
- スキューバダイビング
- 素潜り
- 料理
- パーマカルチャー/有機農業
- 旅
- 人情モノのドラマやアニメ
- 最近バドミントンにハマり出しました
嫌いなもの
- 型にはめられること
- 社会的圧力や誰かが勝手に決めたルールによる理不尽なコントロール
- 不平等
- 他人事な姿勢と無関心
このブログを読んで欲しい人
人生に意味なんか無いと思ってる人
生きるのが辛い人
社会不適合者だと思っている人
自分をダメなやつだと思っている人
人生がつまらない人
会社や学校に行きたくない人
筆者と一緒に遊びたい人
このブログの目的
スマートさとは無縁の筆者がたくさんの失敗と経験を活かし泥臭く世界を旅する姿を通して筆者の思う人生の意味とやった人間にしか見えない世界を興味を持ってくれた皆様とシェアすること。
周りに貼られたレッテルとか、現存の社会に適応出来ないから自分はダメなんだと本気で信じていた筆者が、今同じ悩みを持つ人たちに少しでも勇気を与えて人生を楽しくするお手伝いができればと思っています。
そして一緒に面白がってくれて一緒に遊んでくれたら最高です。
筆者の現在
2005年からオーストラリアを拠点に、好きな時に好きなところに行って好きなことをやる生活をしています。
こんなことをいうとネットでうまいこと稼いでいる人だと思われがちですが、筆者の場合は普通に泥臭~くバイト(料理)をしています。
半年ほど働いて貯めては海外を放浪します。
出来るだけ環境に負荷をかけない生活、足跡を残さない生活を心がけて日々を生きております。
幼少期
お外遊びが大好きな元気一杯の女の子でした。
屋根や木に登ったり、虫を捕まえたり。花や木ノ実、きのこを探すのが好きでした。
親は転勤族だったので幼少期は関東地方の住宅地で過ごしました。
なの年に一回連れってもらっていたスキーやキャンプ、山や海が大好きでした。
小学校に入ると低学年の頃は新しいことにワクワクして楽しく勉強出来ていたけど、学年が上がるごとにやりづらさを感じるようになったのを覚えています。
得意な体育やお絵かきが上手くても評価されないだけでなく、苦手科目の克服ばかりが重視されていたからでしょうか。
みんさんもご存知、学校での生活はそのほとんどが机に向かって一方的に知識を詰め込まれる時間でした。
筆者には社会生活においては致命的な欠陥があります。
- 人の名前が覚えられない
- 忘れ物、ものを失くす
- コントロールされることへの拒絶反応
- 興味の無いことにはどんなに大切な事であっても注意を向けられないなど
授業中もそのほとんどの時間をお絵かきか、窓から外を眺めては雲に乗っかって遠くへ行きたいと思っていました。
親や先生に怒られるので、勉強についていけないのは辛かったのは覚えています。
だけどどうしても授業を聴いていられませんでした。
そして毎日忘れ物をしていました。
本当に漫画みたいに宿題を忘れ、教科書を忘れ、体操着を忘れ、廊下に立たされました。
時に学校からの帰宅でランドセルを無くしたりもしました。
余談ですが今も飛行機の時間や日付の勘違い、パスポートやクレジットカードを失くす、荷物を忘れて飛行機を降りてしまうなど日常茶飯事です。
その頃筆者にはもちろん実感がありませんでしたが、筆者はいつも大抵独りで行動していました。
お友達が欲しかったけどなぜだか出来なかったんです。
きっと自分の興味のあることばかりでお友達に合わせられなかったからだと思います。
給食と体育の授業だけが学校に通う意味でした。
思えばこの頃からみんなと同じように出来ない自分に落胆し、強い劣等感を抱いていました。
中学生時代
そんな筆者も中学生になり部活をはじめました。
陸上部に入って毎日練習。
体を動かすことは大好きでしたが、筆者がとてもストレスを感じていたのが、
- 先輩後輩の上下関係
- 同級生の嫉妬といじめ
- 競争(競う競技ですから当然といえば当然ですが。)
- そもそもどうして毎日練習をしないといけないのか
1年早く生まれただけで踏ん反り返る先輩にこき使われる自分
昨日まで親友だったはずの子が次の日は完全無視そして理由は無い
市や県の大会に強制的に出されてしかも勝たなければならないプレッシャー
どう考えたっておかしいです。
納得出来ませんでした。
『これができるようにならないと生きていけないの?』という疑問を払拭する事が出来ませんでした。
やっぱり学校に馴染むことが出来ずに勉強もどんどん遅れて行きました。
高校入試の頃、陸上の成績のおかげでいくつか推薦をいただいたのですが、筆者はもうこの部活というものが煩わしくてしょうがなくて結局お断りしました。
高校生時代
普通に偏差値の低めな公立高校を受けて無事に合格しましたが、高校時代は筆者にとっての黒歴史。
行く意味もわからないのに親に金を払わせていく高校と教育システムに対する疑問や不満は募る一方でした。
部活はしないでコンビニでバイトをはじめました。
あっという間に3年経って進路を決めなくてはなりません。
筆者には子供の頃からなりたいものというのがありませんでした。
強いていうならずっと遊んでいたかった。
昔から肩書きというものが不思議で仕方なかったんです。
どうしてみんなそんな簡単に私は〇〇ですって言えるんだ?
筆者は変なとこ頭が硬いんです。
社会のプレッシャーから何かにならなきゃいけない焦燥感と何にもなりたく無い自分。
この葛藤に随分悩まされました。
親はありがたいことに大学へ行けと言ってくれました。
今の筆者だったら喜んで行きましたが、(そして環境科学を専攻したい!)そのころの若い筆者はもう机でする勉強に強いアレルギー反応が出ていました。
日本では多くの人が大学に行くということ自体に重きをおいていますが、
大学に行くよりも何を勉強するのかが、そしてその勉強をして何をしたいのかが大事ですね。
だけど筆者にはなりたいものがなかったんです。
勉強したいものも無かった。
なので就職も考えられませんでした。
専門学校時代
その時筆者はお菓子作りにハマっていました。
他にやりたいことのあてもありませんでしたので調理師学校に行かせてもらうことにしました。
料理が出来て困ることは無いと考えたからです。
上野にある、とある調理師専門学校に2年通いました。
それまでの学校生活とは一変して実技が中心の授業でした。
机の上の授業では無かったので筆者はまるで水を得た魚のようでした。
一流の料理人を講師に迎え、華やかな料理の世界に魅了されました。
地元で有名なパン屋さんで週末はバイトをし、夏休みは軽井沢のホテルで住み込みで修行しました。
しかし料理界というのは基本的に精神衛生環境が劣悪です。
とんでもない縦社会です。
怒られることはあっても褒められることはほぼありません。
筆者は褒められて伸びるタイプなのでこれが全然ダメでした。
学生最後のインターンシップで行った田舎のイタリアンレストランで筆者の料理への夢は粉々に散りました。
朝7時から夜の10時まで働いて月給10万とか。
筆者はインターンでしたので1ヶ月ただ働き。
- 料理を志すならこれくらいのことは我慢
- 何事も下積みが大事
- 諦めるのは悪いこと
- 根性無し
確かにそういうこともあるのでしょう。
でも筆者はそんなのゴメンです。
お正月や夏休みが欲しいし
夜は働きたく無いし
先輩後輩なんか糞食らえなんですよ。
自分の好きなように料理を愛していいのですよ。
料理に対する本気度を誰かに証明する必要なんてない!
ということでやっぱりやりたいことは見つからなかったけど、上記の条件を満たす職場を思いつきました。
学校給食のおばさん時代
給料は安いんですけど
- 毎日給食がたべれる
- 定時上がり
- 週末休み
- 学校と同じスケジュールで働くので長期休みがある
- 仕事以外の時間が充実
この頃サーフィンを初めてすっかりハマってしまいました。
徹底した衛生管理や作業工程は決まり事だらけだったのですが、理由のはっきりした筋の通っている決まりごとは全然OKでした。
しかし1年ほどやったところでこのままこの仕事で生きて行くのは嫌だなと思いました。
- 毎月ほとんど変わらない献立
- くだらない派閥争い
- ごますりや処世術
何よりここでこんなことを続けていても将来的な展望が見えてきません。
かと言ってレストランのトラウマはまだあるし、
っていうかもっといろんなことして遊びたい。(←これが一番の理由)
人の少ない暖かい海で思いっきりサーフィンしたい。
海外で暮らして見たい。
そこで筆者はオーストラリアでワーキングホリデーをやってみることにしました。
新卒で就職したところを2年でやめて海外に行くというのはその後の就職活動においてどうなのかということを考えなくも無かったんですが、そんなことよりこの思いついたプランが魅力的すぎて実行以外の選択肢はありませんでした。
学生時代習った英語は全く出来ずじまいでしたが、行けばなんとかなる、そう思っていました。
ここまで来ると実行に移すのにそう時間はかかりませんでした。
渡豪 ~ワーキングホリデー~
2005年3月に仕事をやめて4月にオーストラリアはゴールドコーストに渡りました。
初めての海外なので初めの1ヶ月はホームステイをしながら語学学校に通いました。
信じられないくらい良質で綺麗な波で毎日サーフィンできました。
半年ほどサーフィンばかりやっていましたがついにお金がなくなってきました。
ところで、どうにかなると思っていた英語ですがぶっちゃけどうにもなりませんでした。
1ヶ月の語学学校で理解できたことはBe動詞のみ。(中学生英語!)
それでも筆者にとっては大きな進歩だったんですけどね。
日本語でいくら説明されてもわからなかったBe動詞が英語で説明された時パチっと繋がったのです。
この時初めて勉強ってわかるようになるとスッキリするということに気がつきました。
しかし筆者のカタツムリのような学習スピードでは街で仕事をするまでには何年もかかりそう。
英語ができなくても働ける仕事ないかなって考えたんです。
するとフルーツピッキングという野菜や果物の収穫作業の仕事がオーストラリア各地にあるという情報を得ました。
筆者はサーフィンするので車を早々に買ったので、友達を何人か誘って早速そのフルーツピッキングをすべくゴールドコーストを離れ、内陸へと向かったのでした。
運命のいたずらか、その年からオーストラリア政府はセカンドワーキングホリデー制度を開始しました。
1年目のワーキングホリデー中にフルーツピッキングを3ヶ月以上した人には2年目を許可するというもの。
なので筆者もまたそのチャンスにあやかる事ができたのです。
3ヶ月間の農場での暮らしで世界中に友達ができて、その人たちともっと話したいという気持ちが筆者の英語の勉強を大きく後押ししました。
2年目は絶対英語をモノにしたい!
という事で滞在を1年伸ばすことにしました。
1年伸ばすつもりが。。。
オーストラリアの永住権
条件を満たせば、調理師って永住権取れるらしい
という情報が舞い込んできました。
筆者実はオーストラリア人苦手なんですけど、オーストラリアで世界中に友達ができたんです。
その時筆者にはお付き合いしている人がいたのですが、その人とずっと一緒に居たかったので永住権を取ろうということになりました。
そして2年後
話をはしょりますが、結果から申しますと関係は破綻。
彼は国へと帰りました。
筆者人生の中で多分一番頑張りました。
初めて目標に向かって頑張ったんです。
だけど人生は時に酸っぱい。お父さんのワキくらい酸っぱいんですよ。
彼と居たかったから欲しかった永住権、彼が居なくても欲しいだろうか?
この彼との3年間はなんだったのか
300万円ほどの投資
家族にも紹介したのに。
結局ここで諦めたら全てが水の泡という事実に押し負ける形で一人永住権を申請しました。
どれだけたくさんの仲間たちが永住権を取れずに泣く泣く帰って行ったか。
皮肉にも副産物である永住権と学校を卒業できるレベルの英語力が手に入りました。
自分はラッキーなんだ。
どんなに言い聞かせても心の穴は埋まりません。
本当に欲しかったものは。。。
ここからぽっかりと空いたココロの穴を埋めるための放浪癖が始まりました。
ジプシー生活から現在へ
ゴールドコーストには思い出がありすぎて気持ちが切り替えられなかったのでとりあえず出ることにしました。
バックパックを背負い、船、電車、飛行機、車で移動。
ヒッチハイクもしました。
行き先は決めずにただ流れて行きました。
お金がなくなれば仕事を探し、貯まったら移動。
その道すがらたくさんの友達ができました。
基本的には料理系の仕事をしていたけど、時には面白そうな仕事をしました。
- ワイン用のぶどう狩り
- 羊の毛を刈る人たちの補助、手伝い
- 真珠の養殖船で船上コックとデッキハンド
- 植林
- ホテルのクリーナー
そして金銭のやり取りは無いけど、労働の対価として宿と食事を提供してもらうWWOOFも各地でやりました。
新しいことは楽しいです。
子供の時のように無心で取り組める。
- 新しいことを求めて
- アドレナリンと刺激を求めて
- セレンディピティを求めて
- 出会いを求めて
- 幸せ、満足の答えを求めて
- 生きる意味を求めて
筆者は今日も彷徨います。
人生のゲームは手持ちのカードでやるしかない
よく巷で短所と呼ばれるもの。
筆者は特性と呼びます。
筆者の特性は
- 興味が湧きやすく冷めやすい
- 長続きしない
- 超おっちょこちょい 忘れる 失くす
- 直球 極端な物の捉え方 考え方
- 遊ぶ事が優先事項
3つ子の魂100まで
きっとこういうのは治らないでしょう。
でも人生は持ってるカードでプレイするしかない。
短所を憂い悩むよりも、どうしたら持ってるカードを生かせるかが大事なのだと最近気がつきました。
こんな風に生きていてもやっぱり普通の幸せを手に入れられない自分にうんざりすることはあります。
でも本当は普通なんて言葉はまやかしで、やっぱりみんな違うんです。
自分自身の取説を試行錯誤で探り当てて、自分の人生は自分でデザインしていくしかないのではないかと。
持ってるカードをどう使うかはその人次第。同じカードは存在しないしプレイヤーはそれぞれ。
カードの切り方に正解なんて無いと思うんです。
自分の特性というものを受け入れてそれと共に生きていくしかないと思うのです。
だけど今いるその環境は変えることが出来ます。
その環境にフィットしない自分をこき下ろしても誰も得をしません。
それよりも自分が活きる場所を見つけた方が自分のためになります。
筆者はそういう生き方を選択しました。
最後に
筆者は今日も何とか生きています。
全財産が4ドルになったこともありますけどね。
でもそれでわかったことは、
お金なんかなくても家がなくても結構なんとかなるってこと。
ピンチになっても自分なら必ず道を見つけられるという感覚が身について来ると人生怖いものがうんと減ると思うんです。
とはいえまだまだ不安だし怖いものもいっぱいあるんですけどね〜。
筆者の人生を模索する旅はまだまだ先が長そうです。
最後まで読んでくださってありがとうございました!
筆者はこういう人間です。
筆者に関してここはどうなってんのよ的な質問などありましたらご連絡くださいませ。
筆者のダメな人生が誰かの糧になれたら幸いです!